美術と鏡
インドのラージャスタン州、ジャイプールにあるアンベール城の天井と壁には、小さな鏡が埋め込まれている。一方、同じ州の砂漠地帯には、ラバリ族、バンジャラ族といった民族が住んでいる。彼らは鏡を身に付ける尼だ。邪視をはね返すという鏡の力を信じて、ミラーワーク刺繍を施した衣装に身を包んでいる。私は、これらのことは鏡の持つ神秘的な力を信じた結果であり、それはまた古来より続く太陽や火の信仰と密接に結びついていると考えている。前出の工芸・建築に関わる例を、光を中心に据えて論じていく。
鏡を使って光を「現す」ことは、絵の具で光を表現することとは異なる性格を持つ。絵の具でキャンバスに描かれた光は、その絵画世界の中でしか成立しない。レンブラントの《夜警》の中央部に当たる光が作品の周囲にある光によって変化することがないのは自明だ。一方、金や鏡といったものは周囲の光の当たり具合によって光り方が変化する。つまり、私たちとともにある環境なのだ。中でも鏡は、覗き込むともう一人の自分がいるかのように、克明に対象を反射する。したがって、太陽を映すとあたかももう一つの太陽があるかのように見えるのだ。このことは、太陽の持つ力が鏡によって現世に現れることを意味しただろう。太陽は古代エジプトのラー、インドのスーリヤ、日本のアマテラスなどのように神格化されてきた。同じことが太陽の沈んだ夜や暗い場所における火にも言える。ゾロアスター教に見られるように、火もまた崇められてきたのだ。このような万物を照らす太陽と火が持つ超越的な力は、鏡によって現世にもたらされたのではないだろうか。
では、鏡はどのような目的で光の持つ力を機能させたのだろうか。太陽のもとで暮らす前出の尼の衣装には、大きくても親指の先くらいまでのサイズの鏡が無数に縫い付けられている。ガラスの伝来以前は雲母片を用意していたという。これらのことから、先ほど邪視に対するということを述べたが、どちらかというと光の反射に関心が置かれていたのではないかと思われる。つまり、鏡を見つめると自分が見つめ返しているように見えるが、その性質を利用するにはそこで使用された鏡は小さすぎるし、かつては鏡ですらなかったのだから、光が反射さえることにその効力を見出していたのではないだろうか、ということだ。太陽の光が反射されて周囲の悪いもの(病や災厄など)を照らすことによって、それらを撃退する、という信仰だったのではないだろうか。一方、アンベール城の天井は、当然ながら太陽の光をほとんど受けられない。しかし夜にはおそらくオイルランプの光を反射しただろう。油が貴重であった時代、暗い夜に光り輝くマハラジャ(王)の居城は、王の権力を示したと考えられる。インドの王はカーストで定められた階級の一つであり、また当時ムガル帝国に従っていたことから、公然と光を神的なものと結びつけて言及したり、王位の正当化に利用したりはしなかったかもしれない。しかし鏡のもたらす光に何らかの神秘性を見出していたのは事実だと思われる。
以上のように、鏡は太陽や火の光を反射し、「現す」ことで護身や権力の誇示に機能した。鏡は美術において人々に神秘的な力を期待されたのだ。そしてその根底には太陽や火への信仰があった。このようにして鏡は工芸や建築の意匠に利用されたのである。