金の持つ意味や機能
当初、仏像を金で装飾する際は、煌々と輝かせるためにアマルガムを用いたり、金箔を直接貼ることが多かった。しかし後には、金泥を用いることによって、むしろ煌々と輝かせることを避けるかのような技法が登場する。その背景には、美術作品における金の持つ意味の変化があったのではないかと私は考える。
飛鳥時代、聖徳太子の頃の作品である法隆寺金堂釈迦三尊像は、今では光沢を一部に残すのみだが、完成当時は煌々と強い光沢を放っていたことであろう。ここにはおそらく崇仏派として審神をより神々しくし、人々に敬わせようという権威付けの側面もあったことだろう。奈良時代の東大寺の大仏もアマルガムを用いて金が塗られ煌々と輝いていたと考えられる。ここにもやはり、同様の権威付けの側面があったのではないだろうか。しかし後には、海龍王寺の十一面観音像や東大寺俊乗堂の阿弥陀如来といった金泥による装飾が施された仏像が多く出現する。これらはいくらか鈍い光沢を放つものである。仏の神々しさを強調するには、強い光沢を放っていた方が良いのではないかという気もするが、あえて光沢を抑える向きが出現したというのが興味深い。ここには、強い光沢を避ける理由があったのではないだろうか。これらの仏像はいずれも鎌倉時代の仏像であるが、その前の時代である平安時代、とくにその後半期においては、摂関家や上皇が主として寺や仏像を作っていたと言えよう。平等院の阿弥陀如来などがその例である。これらには自らの死後の安泰を祈念すると同時に自らの経済力、権力を示すという側面もあったのではあるまいか。そしてこの側面が強くなった結果、その金の煌びやかさが徐々に「俗」という概念を帯びはじめたのではないだろうか。換言すれば、仏を権威付け、その神々しさを人々に感じさせていた金であったが、仏像などが富や権威の象徴と見なされるようになり、金の神聖さが薄れたのである。こうした背景の下、派手な光沢を避け、神聖さを保とうとした結果が金泥による装飾なのではないだろうか。煌々と輝くのではなく、鈍く光る様は、仏像の神秘性を保ちつつ俗に墜ちることはない。
金の俗っぽいというイメージは秀吉の金色の茶室などにおいて、桃山時代に一つの頂点を極めたと言えるが、その「俗」というイメージを別の方法で振り払ったのが琳派であると考えられる。彼らの作品には、金による非常に煌びやかな表現が多く含まれるが、権力を示すという意図はあまりないように思われる。そもそもが、町人によって始められた流派であり、権力を示す必要が全くとは言わずともないのである。そのため表現上の金の効果というものを最優先し、「俗」のイメージを振り払えたのではないだろうか。琳派の燕子花図屏風などは画面の大きな部分を金箔が占めているが、シンプルな燕子花と相まってむしろ清々しささえ感じる。
以上のように、日本においては、時代によって美術作品における金の持つ意味が変化し、またそれが美術作品の作風を変化せしめるといった現象があったと私は考える。そのなかで一部の芸術家たちは、俗っぽさを排しながらも、神々しさや装飾性を得るという、言わば金のいいとこ取りをしようと工夫を重ね、それが日本美術の多様性に一定の寄与を果たしていると言えるのではあるまいか。