衝撃を受けた作品
私が衝撃を受けた作品は、《グランド・オダリスク》である。
本作品の作者アングルは新古典主義を代表する画家として知られている。それゆえ、彼の画風はデッサンと形を重視した、極めて理性的で写実性の高い表現となっており、このことは本作においても例外ではない。本作では、長椅子の上で全裸の女性が背中を向けて横たわり、顔は観者の方を振り向いている。肌は油彩画とは思えないほどに滑らかに表現されており、黒く塗られた背景によりその肌の輝きは増し、官能的でさえもある。女性の周囲を取り巻くオリエント風の装身具も緻密に描かれている。光を反射する布地や彼女が右手に持つ孔雀の羽根の扇は、その官能性を高めているようである。本作品の主題である「オダリスク」は、イスラームの君主に奉仕する女奴隷を意味しており、19世紀から18世紀のヨーロッパで広く好まれた絵画の題材である。それゆえ、同時代の画家ドラクロワも「オダリスク」を題材として描いている。そこでは、女性は胸を露わにして男性を誘うかのようなまなざしを観者に向けており、非常に官能的な表現となっている。しかし、アングルが描く「オダリスク」の女性は、背中と乳房の一部しか見せておらず控えめでもある。それゆえ、官能的な女性美のみならず、理知的な女性美さえも感じられる。
私は、本作品における以上のような高い写実性と官能的で理知的な女性美の表現に深い感動を覚えた。しかし、私が衝撃を受けたのは、その画面をしばらく見続けてからであった。よく見ると、その女性は解剖学的にはあり得ない人体構造をしていたからである。背中は伸びきっており、でん部や大腿部は異様なほどに太い。しかし、そうであるにも関わらず、私はその表現から高い写実性と女性美を感じていたのである。むしろ、そうであるからこそ、私にそれらが感じられたのかもしれない。つまり、私は、解剖学的にはあり得ない人体構造の表現、すなわち非写実的な表現に、高い写実性と女性美を感じていたのである。この事実に、私は衝撃を受けたのである。一般的に「写実的な表現」と言えば、主観を交えないありのままの表現を意味するが、これに従うならば、本作品は写実的とは言い難いかもしれない。しかし、この事実に気づいた後も、私には本作品の写実性は否定し得ないものであり、それゆえに、その表現は自然に感じられた。では、そもそも、なぜ私は解剖学的にはあり得ないと感じたのであろうか。それは、その画面をしばらく見続けて思考を巡らせたからである。つまり、解剖学という知識に基づいて観察したからである。しかし、日常において現実の世界を知覚するとき、私たちはそのように思考を巡らせているわけではない。それゆえ、現実において女性を知覚し、官能的で理知的な女性美を感じるとき、私たちにはその女性が本作品に表現されているように見えているのかもしれない。また、現実の世界は三次元である一方で、絵画は二次元の平面上の表現である。それゆえ、現実の世界を平面上で表現するのであれば、その見え方も様々に考えられるのではないだろうか。このように考えるならば、本作品は知覚された現実の世界の光景を表現しており、写実的であると言い得るのである。本作品を鑑賞するまでの私は、人体表現においては、解剖学的な正しさこそが写実性と美を保証すると考えていた。しかし、本作品はその私の考えを覆したのである。それゆえに、私は衝撃を受けたのである。
本作品におけるこのような解剖学的にはあり得ない女性の人体構造は、アングルによって理想化された女性の表現であるとも言われている。では、そもそも理想とはどのようにして生まれてくるのであろうか。理想はしばしば現実の対義語として考えられる。しかし、その理想は何らかの現実に基づいているのではないだろうか。それゆえ、理想とは私たちが未だ気づいていない現実なのかもしれない。本作品における女性についても、それが理想化された表現であるならば、それはアングルが現実の世界で実際に見た光景なのかもしれない。だとするならば、アングルの《グランド・オダリスク》を見たとき、私は現実と理想が共存する事実を目の当たりにしたのである。